自己破滅的な性格
あなたは「だめんず・うぉ~か~」 という漫画を読んだ事があるでしょうか? このだめんず・うぉ~か~とは、「ダメな男を渡り歩く女」と言う意味で、著者の倉田真由美さんがダメな恋愛をする女性をインタビューし、その珍プレイっぷりをコミカルに、それでいて鋭い視点と観察で描いています。女性びいきの感情論も少し混じりますが、私はこの漫画の大ファンです。
普通の微笑ましい恋愛を描いても漫画としては刺激がありません。ですから、ほとんど異常と思えるほど身勝手で、エゴイスティックな男女がこの漫画には登場します。
女性からお金をせびったり盗んだりする男、見かけ倒しで中身のないハリボテ男、女性に暴力を振るう男、女性を性欲処理の道具としか思わない男、自分の言動にいっさい責任を持たない男、嫉妬深く束縛する男、社会性と常識のまるでない男 etc.
そして、そんなダメな男を愛してしまう、見る目のないダメな女のドタバタ恋愛模様が笑いを誘います。
男性のお金しか見ていない女、男性の外見だけで惚れる女、簡単に身体を許して心までボロボロになる女、分かって不倫をしておいて相手の家庭を壊そうとする女、言動に一貫性がない支離滅裂な女、自分のその時の主観的感情だけが正義の女 etc.
ギャグ漫画として笑ってはいるものの、「はて、心理カウンセラーとしてこの人達の精神衛生状態を診る時、これってどうよ?」と、ふと冷静に考えてしまいました。この漫画の登場人物たちは明らかに自分を不幸にする性格傾向を持ってしまっているからです。
カッとなったら女性を殴る男性が幸せになれる訳がありません。男性を外見やお金だけで評価する女性が幸せになれる訳がありません。真面目に仕事をする事に喜びを感じられない、相手の幸せが自分の喜びに感じられない、そんな人が幸せな家庭を築ける訳がない、という事は誰にでも分かります。
良いものであれ、悪いものであれ、これらの傾向はその人の “性格” と呼ばれるものとなります。では性格とはなんでしょうか?
性格とはスイッチの寄せ集めでしかありません。非常ボタンを押したら電車が止まる。電源ボタンを押したら電気が入る。アクセルを踏んだら車が進む。3階のボタンを押したらエレベーターが3階に止まる。これと同じように、性格とは外界からの刺激に対する、自分の内的な反応にしか過ぎないのです。
女に口応えされたら殴る。男を見たらリッチ度を探る。顔の作りが整っていると欲情する。これらもすべてただのスイッチで、外界からの刺激に対して、自分が内的に反応をしているだけです。
性格とはある程度変える事ができます。性格を変えるという事は、つまりスイッチの配線や繋ぎ方を変えるという事です。同じスイッチなら自分を不幸にする、自己破滅的な壊れたスイッチよりは、自分を幸せにしてくれる社会適応性のあるスイッチの方が良いですよね?
女に口応えされたらほほ笑む。男を見たら真面目さを探る。顔の作りが整っていたら性格をみる。このようなスイッチを持っている人の方が、ずっと幸せな人生を歩む事ができます。
しかし、多くの人は自己破滅的なスイッチの配線を変えようとしません。曰く「だって、それが私の性格なんだもん」。
このように言う人は、
〔自分の持っているスイッチの配線 = 私自身の本体〕
だと思っています。つまり、
〔性格 = 自分〕
だと思っているのです。
いえいえ、それはただの配線ですから!
それはあなたにくっ付いている機能の一部であって、あなた本体ではありませんから!
スイッチが何らかの機能不全を起こして、あなたを不幸に導いているのならば、そんなのとっとと変えてしまった方が良いですよね? 3階のボタンを押したのに、エレベーターが緊急停止して閉じ込められてしまったらどうします? それと同じです。
幸せになろうとして押した自分自身のスイッチの方に問題があり、それが原因で不幸が続くのに、だめんず・うぉ~か~を読んでいると、その登場人物たちはどうもそれが彼氏や彼女、相手の責任であると思い込んでいるようなのです。あるいは自分の性格に問題を感じていたとしても、それを直そうとは考えません。その替わりに「私のワガママとジコチューを分かってくれる人がイイ」と、「割れ鍋に綴蓋」よろしく、自分の問題ある性格を受け入れ、あまつさえ助長してくれるようなパートナーを探し求めるのです。
自分の性格を変えようとするという事は、自分の性格を否定するという事です。ダメだから取り替える必要がある訳ですから。この時、〔性格 = 自分〕と思い込んでいる人は、「自分の性格を変えるという事は、自分の存在そのものがダメなのだ」と、自分自身の全存在を否定しているかのように錯覚してしまいます。これはツライ事です。
愛情に恵まれずに育ってしまい、自尊心を十分に成長させられなかった人は、それ以上自分自身を否定する事に耐えられません。だから自分を取り崩す強さや勇気が持てないのです。その結果、自分の内面を他人や現実に合わせようとはせず、他人や現実を自分の内面に合わせさせようとしてしまいます。そしてますます周囲にトラブルをまき散らし、自分自身をも不幸の連鎖に巻き込んで行くのです。
しかし、本当は〔性格 = 配線〕でしかないのです。しかもその配線ですら、自分で決めたものではありません。両親や先生の教育、兄妹や友達の影響、育ってきた環境や境遇、それまでの経験や体験、コンプレックスやトラウマが勝手に作り出したもので、自分が主体となって選んで決めたものではないのです。
そんなものに、なぜそんなにしがみつく必要があるのでしょうか?
あなたも自分の性格を変えたいと思いつつも、もしかしてそれにどこかで愛着や執着を感じてしまってはいませんか?
普通の微笑ましい恋愛を描いても漫画としては刺激がありません。ですから、ほとんど異常と思えるほど身勝手で、エゴイスティックな男女がこの漫画には登場します。
女性からお金をせびったり盗んだりする男、見かけ倒しで中身のないハリボテ男、女性に暴力を振るう男、女性を性欲処理の道具としか思わない男、自分の言動にいっさい責任を持たない男、嫉妬深く束縛する男、社会性と常識のまるでない男 etc.
そして、そんなダメな男を愛してしまう、見る目のないダメな女のドタバタ恋愛模様が笑いを誘います。
男性のお金しか見ていない女、男性の外見だけで惚れる女、簡単に身体を許して心までボロボロになる女、分かって不倫をしておいて相手の家庭を壊そうとする女、言動に一貫性がない支離滅裂な女、自分のその時の主観的感情だけが正義の女 etc.
ギャグ漫画として笑ってはいるものの、「はて、心理カウンセラーとしてこの人達の精神衛生状態を診る時、これってどうよ?」と、ふと冷静に考えてしまいました。この漫画の登場人物たちは明らかに自分を不幸にする性格傾向を持ってしまっているからです。
カッとなったら女性を殴る男性が幸せになれる訳がありません。男性を外見やお金だけで評価する女性が幸せになれる訳がありません。真面目に仕事をする事に喜びを感じられない、相手の幸せが自分の喜びに感じられない、そんな人が幸せな家庭を築ける訳がない、という事は誰にでも分かります。
良いものであれ、悪いものであれ、これらの傾向はその人の “性格” と呼ばれるものとなります。では性格とはなんでしょうか?
性格とはスイッチの寄せ集めでしかありません。非常ボタンを押したら電車が止まる。電源ボタンを押したら電気が入る。アクセルを踏んだら車が進む。3階のボタンを押したらエレベーターが3階に止まる。これと同じように、性格とは外界からの刺激に対する、自分の内的な反応にしか過ぎないのです。
女に口応えされたら殴る。男を見たらリッチ度を探る。顔の作りが整っていると欲情する。これらもすべてただのスイッチで、外界からの刺激に対して、自分が内的に反応をしているだけです。
性格とはある程度変える事ができます。性格を変えるという事は、つまりスイッチの配線や繋ぎ方を変えるという事です。同じスイッチなら自分を不幸にする、自己破滅的な壊れたスイッチよりは、自分を幸せにしてくれる社会適応性のあるスイッチの方が良いですよね?
女に口応えされたらほほ笑む。男を見たら真面目さを探る。顔の作りが整っていたら性格をみる。このようなスイッチを持っている人の方が、ずっと幸せな人生を歩む事ができます。
しかし、多くの人は自己破滅的なスイッチの配線を変えようとしません。曰く「だって、それが私の性格なんだもん」。
このように言う人は、
〔自分の持っているスイッチの配線 = 私自身の本体〕
だと思っています。つまり、
〔性格 = 自分〕
だと思っているのです。
いえいえ、それはただの配線ですから!
それはあなたにくっ付いている機能の一部であって、あなた本体ではありませんから!
スイッチが何らかの機能不全を起こして、あなたを不幸に導いているのならば、そんなのとっとと変えてしまった方が良いですよね? 3階のボタンを押したのに、エレベーターが緊急停止して閉じ込められてしまったらどうします? それと同じです。
幸せになろうとして押した自分自身のスイッチの方に問題があり、それが原因で不幸が続くのに、だめんず・うぉ~か~を読んでいると、その登場人物たちはどうもそれが彼氏や彼女、相手の責任であると思い込んでいるようなのです。あるいは自分の性格に問題を感じていたとしても、それを直そうとは考えません。その替わりに「私のワガママとジコチューを分かってくれる人がイイ」と、「割れ鍋に綴蓋」よろしく、自分の問題ある性格を受け入れ、あまつさえ助長してくれるようなパートナーを探し求めるのです。
自分の性格を変えようとするという事は、自分の性格を否定するという事です。ダメだから取り替える必要がある訳ですから。この時、〔性格 = 自分〕と思い込んでいる人は、「自分の性格を変えるという事は、自分の存在そのものがダメなのだ」と、自分自身の全存在を否定しているかのように錯覚してしまいます。これはツライ事です。
愛情に恵まれずに育ってしまい、自尊心を十分に成長させられなかった人は、それ以上自分自身を否定する事に耐えられません。だから自分を取り崩す強さや勇気が持てないのです。その結果、自分の内面を他人や現実に合わせようとはせず、他人や現実を自分の内面に合わせさせようとしてしまいます。そしてますます周囲にトラブルをまき散らし、自分自身をも不幸の連鎖に巻き込んで行くのです。
しかし、本当は〔性格 = 配線〕でしかないのです。しかもその配線ですら、自分で決めたものではありません。両親や先生の教育、兄妹や友達の影響、育ってきた環境や境遇、それまでの経験や体験、コンプレックスやトラウマが勝手に作り出したもので、自分が主体となって選んで決めたものではないのです。
そんなものに、なぜそんなにしがみつく必要があるのでしょうか?
あなたも自分の性格を変えたいと思いつつも、もしかしてそれにどこかで愛着や執着を感じてしまってはいませんか?










